瞑想修行にて

さて2011年、年末になりましたが




今年も来年も、じぶんでじぶんの直感を信じさせる生き方をしたいとおもいます。








先日、合計で11日間ほど時間を取り、ヴィパッサナー瞑想という瞑想法を学ぶための
修行のコースに参加してきました。


「ヴィパッサナー」とは、「物事をありのままに見つめる」という意味だそうですが、
インドの最も古い瞑想法のひとつであるそうです。この瞑想法を、合計11日間の隔離生活と修行によって身につけるコースでした。



そして瞑想というと、なんだか怪しい、よくわからんと思う方も多いかもしれませんが、
信仰だとか、儀式などといったものとは全く別物です。

無論、信仰や宗教がどうとかいうつもりはなく、いずれも素晴らしいものなのですが、
瞑想は、簡単にいうとトレーニングです。修行です。

中学校とかで参加したスキー教室とか水泳教室とかをイメージするとわかりやすいかと。



スキー教室では、4日間なり5日間で滑り方を身につける。
このコースでは、正しい瞑想法を身につけるためのコース、といったところでした。

では、スキーができると雪の上をすいすい滑れて楽しくなるけど、
瞑想は何のためか、というと、これはひとことで言ってみるなら、

「現実を正しく認識して、より良く生きることができるようになる」ため、
といったところです。

そのための実践法を学ぶ、修行といったところです。



そうは言っても、瞑想している人は目を閉じて座って、居眠りでもしているように見えますが、
あれはねているのではなくて、呼吸に集中して、神経を鋭く尖らせて、自分自身を通して
現実と向き合っているのです。


そして、呼吸に集中したりするのは、ヨガと似ているところがあるかと思います。
ヨガは今でこそポピュラーになっていますが、あれも本来、修行法の一つだそうです。





まあ、それではなぜ参加しようと思ったか、という話になるかと思いますが、

1年ちょっと前に、このコースの存在を知ったときに、直感で
「ああ、これおもしろそう、日本にもあるらしいから一度いってみたいな」
とおもったからなんです。ようするに直感なんです。


たまたま友人が、インドでコースに参加して座ってきたよ、人生を変えるほどのものだよ、
なんてことを言っていたり、イギリスでコースに参加した友人もいたり、
内容を聞くとこれまた面白そうで。


日本ではあまり知られていませんが、世界100カ所以上に、この瞑想を学べるセンターがあり、日本では現在、京都と千葉になります。
インドあたりをふらついてたバックパッカーとか、そのへんのヒッピー界隈では、まあまあよく知られているそうです。
(事実、facebookで「参加した」と一言つぶやいたら即座に3人くらい反応したひとがいたのですが、全員インド狂のひとたちでしたw)


ことしの秋頃だったでしょうか、
世界一周してる大学生が12日間、人と話してはいけない、目も合わせてはいけない、読み書きや娯楽が一切禁止のヴィパッサナ瞑想修行(インド)に参加してきました。というブログを読んでその存在を思い出し、

なんとか年内に行けないものかなー、今行くべきな気がしてるんだよなー、と思いはじめ、参加することにしたのです。
世界一周されている青木さんという方のブログです。ツイッターで見かけました。




コースの1日のスケジュールは、だいたい以下の通り。

よく「修行に行った」というと滝に打たれたのか、とか言う人がいますが、
この瞑想の修行は、1日ざっと10時間程度、ひたすら座るものです。

朝は4時起きで、4時半からは2時間すわる、というスケジュールですが、
夜は9時半過ぎには寝ています。

山奥なので、星や月がとってもきれいで、朝起きても夜寝るときも星が見えました。





そして、さらにものすごいのが、コース中は一切のコミュニケーションが禁止されています。


携帯電話や雑誌・本、ペンやメモ類などは全て回収されるだけでなく、他の参加者とも一切コミュニケーションを取ってはいけません。
会話もできないし、目線や紙に書いてのコミュニケーションも禁止。
すぐ隣にねてたり、1日中ずっと一緒に生活しているひとたちと、全く話ができず、
本当に「自分一人で修行している」ような環境でした。
外部との接触が完全に切られるので、修行に専念できる、というかそれしかできないようになっていました。



千葉のセンターの写真。
まんなかが瞑想ホール、左側が男性、右側が女性宿舎となっています。



とくに朝晩はとても寒く、霜が降りて植物が凍っていました。マイナス10度くらいになるそうです。千葉なのに...
雪がふったようにあたりが真っ白になってちょっと幻想的でした。



食事は全てベジタリアン
写真はいつもの朝ご飯。玄米に梅干し、みそ、胡麻などをとって食べる。



コースには男女あわせて30人くらいの人が参加していました。
学生はぼくのほかにもう1人だけで、仕事を辞めて次の仕事までの間の期間、
求職中の人、漁師さん、無職の人など、さまざまでした。
かなり濃い人たちばかりで、とても面白かったです。外国人も数名参加していました。




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以下に、実際の流れと自分の体験と感想をすこしまとめてみます。
もちろん、一切のメモ等は禁止されていたので、記憶をよみがえらせて、の範囲にとどまりますが。



0日目(集合日)
夕方頃にセンターに集まり、オリエンテーションを受けて、注意や生活の仕方を理解して、
その日は1時間程度だけ瞑想して終了。翌日から朝早いので、すぐに寝る。
携帯電話はじめ全てのメモ類等を回収され、いつぞやの北朝鮮にいったときみたいだな、とおもいつつ いよいよ始まるな、とおもいつつコースに向かう。
すげーヒッピーみたいなひとばっかりいるのかな、と思ったが、意外と会社員みたいな人たちもいるな、と思った。



1日目
まずは呼吸に集中する、アーナパーナ瞑想というもので修行を開始した。朝4時起床。
目覚ましがなくても起きられた。
ちなみに会話禁止なので、寝坊しても誰も起こしてくれないという状況。地味にこわい。
瞑想し始める。集中しようと努力するが、気がつくと思考がどこかにいっている。
1日のあいだ、10時間すわっていたけど、本当に集中できていたのは1分くらいだったかもしれない。それくらい思考が乱れた。ぜんぜん集中できない。これでいいはずないよな...
鼻水がずるずるする。集中がいちいちとぎれる。風邪かな、と思った。
しかし夜の講話を聞いて、道が開けたような気分になる。すごい、と思った。



2日目
この日も集中力を高めるための修行。
体調が悪化し、完全に風邪になっていた。鼻水が止まらず、夕方の講話を聞く頃には
寒気がしてきて、「まだ2日しか経ってないけど、こんなんで大丈夫かな...」
と、思わずにはいられない状況になっていた。
なお、体調のせいもあったかもしれないが、2日目くらいまで自分の集中がほとんど落ち着かず、一体こんなところまで何をしにきているんだ、と思った。
そしてそれは、「現在を見つめる」ということをいかに日常的にせず、ふらふらした思考と付き合って生きているか、ということを痛感した。



3日目
風邪薬が効いたようで、朝起きると少し楽になっていた。
引き続きすわり続ける。
この辺りから少しずつ集中できるようになってきた、気がする。
この日から天気がよくなってきて、昼は外でひなたぼっこできるくらいになった。
それだけで元気になる。太陽って偉大だなと思った。



4日目
この日の午後から、本格的なヴィパッサナー瞑想の修行に入った。
集中を全身に広げ、全身の神経をとがらせるトレーニング。
この日から、1日3回あるグループ瞑想の時間は、身体を動かすことも目を開けることも禁止され、
決意とともに参加するように、と言われた。50分くらいまで来ると足の痛みがはんぱない。



5日目
ヴィパッサナーの修行が深まっていく。そして、1日3度の1時間全く動けない時間がなかなかキツい。足の痛みがきつい。気付けば風邪はすっかりよくなっていた。
夜の1時間くらいの講話を聞くのが楽しみになっている。
1日1つは、何らかの気づきがいつもある。



6日目
この辺りも天気がよく、お昼の休憩にはひなたぼっこをして過ごす。
この、昼の1時間、何も考えずに太陽の下でぼーっとして寝るのが楽しみになっていた。
慣れてきたせいもあってか、早く新しいことを学びたくなってきた。
ちなみに、この10日間は、毎日同じことをするのではなくて、少しずつ学んで
ステップアップしていけるように組まれていて、ほぼ毎日新しいことを学んでいった。



7日目、8日目
あまり記憶がない...が、日に日に意識の動かし方に慣れていった。
1時間ただ座っているって、よく考えればすごい長く感じるだろうけど、この頃には
それほど長く感じることはもうなく、感覚でどれくらい座っているかわかるようになっていた。
もう4時起き生活には完全に慣れていた。



9日目
いよいよ終わりだ、という気持ちが高まると、いわゆる締切効果なのか集中力が高まる。
この頃にはもうほとんど全身で集中できるようになっていた。1時間座ることにも慣れてきていた。もちろん痛いのだが。



10日目
いつもの通り、朝起きてから2時間、ご飯食べてから1時間座った後で、沈黙するルールが解かれ、ついに参加者が話しはじめた。「お疲れさまでした、普段なにしてるんですか、どこで知ったんですか、ここまで辛かったですね」、など。
すごく変な感じ。今日までずっと同じ環境で生活してきていたのに、今から突然話し始める。なんか知ってる人なのに知らない、みたいな感じ。あるいはその逆か。

しかし、修行を重ねていくうちにその沈黙の意味に気づいた瞬間でもあった。たしかに、こんな風に話ができたら楽しいかもしれないけど、完全に自分一人だけと向き合う環境の方が、学ぶことは多かったな、ということがわかった。
きっと、参加者と話しながらやっていたら、今感じるような成長と感動はなかったのかもしれない。同じ参加者からの情報でさえも、慣れるまでは排除していた方が良い。そう思うと、このすさまじい隔離のルールも合理的だったんだな、と思えてきた。



11日目(コース終了日)
朝4時半から、最後の瞑想を1時間ほど行い、朝食。部屋の掃除や片付けをして、コースは終了した。
ひさしぶりにiPhoneをいじると、なんだか買ったばかりみたいな違和感があった。
バスにのり、電車に乗り、いろんな音が聞こえてくる空間へと、日常へと戻っていった。




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コースを終えてみて実感したことは、


①「実践だけが答えをつくる」ということ。これをとにかく実感した。
「尊敬する人が言っているから」「論理的に正しいから」ではなく、そして「共感するから」でもなく、ただ自分自身が体験したことが真の意味で真実だし、
それこそが本当に人を変えるし、動かすし、だからこそ考えるんじゃなくて体験が必要、
理論をわかるんじゃなくて修行が必要、ということだった。

これが毎晩のように講話の時間で説かれていて、その話が頭に染み付いたというのもあるかもしれないが、それだけじゃないと思っている。
10日間の修行を通して、まるではじめは水が怖かった人が、最後にはプールで25メートル泳げるようになったかのように自分の変化を実感したし、それを体験したからこそ、こうやって修行を重ねることの意味はすごくある、と自信を持って言えるようになったのだと思う。

これは、情報があふれているぼくたちの日常でも多分に通じる話だと思います。
なんだかいい話を聞いて共感して、リツイートボタンを押すだけでなんか経験したような気になってしまう。Twitterをしてたりすると、そんなことも多いと思います。ぼくも多いです。

でもそうした「頭の中での」理解や共感だけ、というのは、本当は力のないもので、自分自身の体験や経験にもとづいた経験こそが一番必要なんだ、と。

情報が多いことが必ずしもよくない、というのは、そういうことでもあると思うし、
いまの社会の中で生きていく中でいろんな情報や選択を「いいとこ取り」して、
自分に合わせて自由に生きているようで、実は環境や情報に振り回され過ぎている、ということが起こりかねないし、実際たくさん起きていると思う。


文字でこんな風に書いたらあたりまえのことなんだろうけど、
あそこで自分自身がひたすら修行するという経験の中から気づくことができた、ということに意味があるし、そうであるからこそ今は物事がちがって見える。


そして、これはそのための修行なんだな、と思った。



②それからもう一つ大きく感じたのは、あの徹底した情報と隔離された空間を体験することのおもしろさ。
講話の中に、「人は、食べ物を一切取らなくなっても、突然死ぬわけではない。身体にたくわえている栄養分や脂肪を消費して、しばらくは生きることができるんだ」という話があったのだけど、まさにこれと同じことが、ぼくの日常生活と付き合っている情報との関係にいえると思う。というかそんな現象が自分に起きたのでした。


外からの情報が本当に一切なくなったことで、自分の頭のなかにこれまで詰め込んできた情報が整理され、頭がクリアになって、おもしろいアイディアとかが浮かんでくるようになった。
取り込むことを完全に停止すると、自然と頭の中に入っていたものが面白いように出てくる。


それから、これも頭の深い部分に眠っていたことなんだと思うけど、ねている間に見た夢が変わってきたことを実感した。思い出しようもないような昔の友人とか、旅先でチラッとであっただけのような人とか、昨年を思い出してか英語で夢をみたりした。


また、文字をほとんど見なくなったことで、なんか文字が読みたくなってくる。
いかに自分が普段、twitter、新聞など文字と共に生きていたかというのがよくわかった。
壁に貼ってあるわずかな注意事項とかをいつも読み返してしまったり、文字がやたらと目に入ってくる。読みたくなっているのだ。
そういえば休憩のとき、牛乳パックのパッケージの表示を一生懸命読む参加者を目にした。きっとぼくと同じ現象が起きていたんだと思う。




こんな風に、外部からやってくる情報から完全に離れることは、いまの日本ではそれこそ
無人島に行くでもしなければ実現できないものだと思う。
そうした環境に身をおくということだけでも、すごく感じることはあるし、そうした環境で修行すれば、それこそ何も感じない方が珍しいくらいなんじゃないかな、と思った。





そういえばある人に、参加する前に「山口くん、修行いってきたらますます物事に動じなくなりそうだね」と言われた。
そもそも自分があまり動じないのかどうかという話は別にして、確かにその通りだったと思う。
修行では、自分に起こっている現実をとにかく見つめ、それに反応せず客観視する、ということをひたすら行う。これはある意味、物事に動じなくなるためのトレーニングであると言えると思う。



でも、ぼくはむしろ、逆を考えていた。
「何事にも動じなくなるため」に修行するのではなく、小さなことにも動じることができるようになるため、
あたりまえの日常に感動し、感謝して生きることができるようになりたいと思った。

そのためにコースに参加したいとおもっていました。




そして、それもまた正しかった、と思っている。

物事をあきらめること知るためではなくて、あたりまえの物事を問い直し、主体的に読み解いて生きるため。
西行みたいになるためではなくて、高杉みたいに生きるため。
平家物語をうたうためではなくて、松下村塾をつくるため。

そして、そういうのは結局、体験として見つめ直すことでしか実現できないのかもしれないな、と思った。




そうは言っても、11日間もまとまって休みをつくってコースに参加するなんてこと、
はっきり言って相当難しいことだと思う。

ぼくはまだ大学生だったので比較的時間をつくりやすいかったですが、おおくの人はそもそも時間をそんなに取れないだろうし、取れたとしても10日間世の中の日常から離れることによる、経済的、あるいは社会的"損失"がどの程度のものかということを考えだすと、そう簡単に決断できることじゃないのではないでしょうか。


10日間の空白ができた段階では、たしかに"損失"と呼ばれてしまうのかもしれない。
でもあれほど豊かな時間の使い方ってなかなかないと思います。
そして、その経験を長期的にプラスにしていかなければいけないとおもう。
考え方だけじゃなくて、生き方として。
日常にもっともっと、経験を通して学んだ視点を取り入れていくこと。


だからこそ、あの11日間で終わりにせず、日常的に瞑想はできる限り続けていきたいです。
頭の理解だけにしてしまったら、意味をもたないから。



自分は、そんな風に思っています。
そして、そうした経験ができる場所の存在を全く知らない、知り得ないひとがたくさんいる中で、
そうした情報にアクセスできたということに感謝したいなあと思っています。






以上、つらつらと書いてきましたが、正直、修行は楽ではなかったです。体調もくずしましたし。
まあ楽なら修行とは呼ばないだろうし、でもだからこそ得るものもあったし、
人生の方向転換をするようなタイミングには、また参加したいな、と思いました。



また少し、なにか感じることがあったら、文章にしたいなとおもいます。


※ここに書いたことは、多くが主観ですので、人によって感じ方も違うと思いますので、
あくまで一人の参考意見として理解していただけたら、と思います。
ぜひ、より多くの人に参加してみてほしいなあ、と思っています。